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2009年1月31日 (土)

昭和の時代91、消えた世界6、台所事情2、おくどさん

戦後に住宅を建て直していなければ昭和の三十年代初めまでかまどのある家は珍しくなかった、、我が家が間借り生活をしていたその家も台所の中心をかまどが占めていた。

 今の様にスイッチを捻れば火が着く便利さはない、かまどで煮炊きをしたいなら熱源となる薪や炭を用意しなくてはいけない、、、木を切っただけでは燃えない、充分に生木を乾燥をさせて更に一手間、二手間掛けて薪になる。

 我が家の裏にも父が集めてきた廃材が堆く積まれていた、休みの日に父は半日掛けて廃材を置き換え乾燥させていたそして燃やしやすい大きさに切り揃え斧で割っていた。

 廃材も簡単には入らない、家の改修改築で廃材が出ると聞くと予め貰い受ける約束をして貰ってくる、、父は朝早く其処に出掛け夜遅くなって台八車に廃材を積んで帰ってきた。

 朝夕におくどさんに火を入れる、、新聞紙を固く捻りマッチで火を点け焚き口に入れたら細い木を火の点いた新聞紙の上に置き燃え上がるのを確認する、充分に火が大きくなったら薪を二三本差し入れ火力を上げてゆく、、、

 おくどさんの傍には手火鉢ほどの大きさの鋳物で作った壺が置かれていた、、

 煮炊きが終わり火が残っていたら、、火の点いた薪を水の入ったバケツに入れ火を消す、小さな破片はその鋳物火消し鉢に入れ殻消し炭にして次に火を点けた時の火力の足しにする。。。薪は大事に使っていた。

 冬の寒い日、大きなおくどさんは温もりを持っていたよくその外壁に凭れていて母親に怒られた、、、「子供は風の子外で遊んどいで、、」

 おくどさんの火を消しても暫く、、正確には次の火を入れるまでは温もりがある、、

 「灰が温かくてね、うっかりすると、、、」 と母が昔を懐かしんで話してくれた、、、朝、薄暗い台所なのでおくどさんの中はよく見えないうっかり火の点いた新聞紙を放り込むと、、「ギャァ!」 と叫び声が上がり猫が飛び出して来ると母は言った。

 「猫が入り込まないように寝る前に焚き口に板戸を置き殻消し壺で塞いで措くや。」

 そう言えばあの時怒られたけれど、、、猫もおくどさんから飛び降りた、、

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2009年1月25日 (日)

昭和の時代90、消えた世界5、台所情景1

 母とモデルルームの見学によく行った、、「良いね、こんな家に住んでみたい。」 とモデルルームを出て喫茶店に入りパンフレットを眺めながら話し合った。。

 昭和五十年代、其れまでは緩やかに衣替えしていた住宅事情が大きく変わった様に思う、住む人の個性や生き方が住宅環境に現れたからだろう。 母と私は先ずモデルルームのキッチンの設備に目を奪われた、、、外国のホームTV番組のキッチンがそのまま其処にあった、大型のシステムキッチン、大型の食洗機、大型の両開きの冷凍冷蔵庫に、オーブンレンジ、電動調理器の数々が直ぐに使えるように置かれている、、(其処は料理教室も兼ねていたので食材や調味料の小瓶も棚に保管されていた)、、、憧憬の世界が其処にあった。

 間借りをしていた住居から三度転居し今はマンション暮らしその台所情景はみな同じ、食器棚と冷蔵庫を隙間にはめ込む、あのモデルルームでみたわくわくする憧憬はないが間借り生活をしていた江戸時代後期から明治初期の建造物の台所と大きく違い遙かに便利だ。

 台所の一角を大きなおくどさん(かまど)が占める、片隅に小さな水場があり棚が置かれている、五徳のガス台が置かれる様になったのは戦後で其れまではかまどと七輪で煮炊きをしていた。。。魚を調理するのは水場だったが、あの当時はそれ以外は土間を上がった板の間で色々な調理の下準備をした。

 外米や虫食い米の選別、鞘から豆を取り出す、根菜の皮むきに筋取り、、、更に胡麻や豆腐をすり潰す為に大きなすり鉢を持たされ大根下ろしも手伝わされた、、

 今と違い水場に調理台が設置されて居なかったので板の間が調理場となっていた、当然だがあの当時はテーブルはなかったし食卓は其処にないので板の間に座るか膝を突き屈み調理の下準備をしていた。。。今より調理に動線を要していたが一つの料理を作るにも急ぐでもなくゆっくりと母は仕上げていた、、

 

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2009年1月24日 (土)

昭和の時代89、消えた世界4、段差

今はマンションに住んでいる、我が家は古いマンションなので水回りのあるトイレ洗面所は他の場所と違い十センチ弱の高低差がある、浴室にはもう少し高めの敷居あり浴室からの水が流れ出るのを防いでいる更に見回してフリースペースと名付けられた部屋も段差がある、、、

 最近はバリアフリーと言う事で敷居も含め一切段差のないマンションや建売住宅が売り出されている、、我がマンションの最近向かいに建った大きなマンションも段差がないオール電化のマンション、、、建った当時は羨望の眼差しで眺めた、、お金が在れば住み替えていたのだが私の年齢では色々と審査の段階で落ちる可能性がある、、、

 あの当時と言うか古い家は何処にでも段差があった、、

 玄関を入ると先ず四、五十センチの高さの大きな御影石の踏み石があり其処から更に三十センチ上がり六畳の板敷の間となって玄関先の客は此処で腰掛け話し合う、、、もっと親しいご近所さんは生活の出入り口の勝手口から入ってくるのだが、、

 玄関先の板敷の間から台所に向かうにはやはり二、三十センチの高さの段差がある、段差を越えると四畳ほどの板敷がある、、水場、おくどさん、ガス台はその板敷から三十センチ程下がった土間にある、、、当然だが算数をすると勝手口から外に出るには四、五十センチの段差があるので勝手口用の石段が外にある、、、

 長屋のご近所も同じように段差が台所にある、水回りは一段低かった、二畳から四畳の板敷の先に一段下がり土間がある、、、段差は何も足の引き上げに下ろしだけでない今以上に腰を屈め日常生活を行わなければいけない、、、今以上にあの当時は生活の中で立ったり座ったり、或いは膝を突き、また中腰になったり屈んだりと様々な下半身の運動 ? を強いられていた様な気がする。

 そんな段差の生活は不便だと感じ台所の段差を無くす家が出始めたがその家はお年寄りの家ではなく若い夫婦の家が多かった、、、「這い這いを始めた赤ん坊が転げ落ちるので、、」 と言うのが夫婦の言い分だった、、、長屋の世代が変わると段差が消える?

 最近、TVで新築、改築住宅番組をみると完全バリアフリーではなく生活の為(健康の為か、、)に敢えて段差を作る家があるのを見掛ける、、健康意識から建築にも人間工学が持ち込まれたのか或いは昔の段差の生活が日常に変化を与えるのか、、

 確かに日常生活に段差があると足腰に少々の負担が掛かる訳で膝や腰が痛い時は不便だが意外な効用も段差にはあるのかもしれない、だから見直されてきたのだろう、、

 其処に段差があると脳が感じると危機意識が働く、、段差は老化ぼけ防止しか、、、

 

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2009年1月17日 (土)

昭和の時代88、消えた世界3、鶏小屋

 昭和三十年代中頃までは各家庭で鶏を飼っている家が多かったと思う、間借り生活をしていた我が家の主の老夫婦も鶏を二羽飼っていた、老夫婦なので二羽も居れば充分日常必要とする卵をまかなえた。。。

 近所を見渡せば隣のお婆ちゃん宅も鶏を何羽か飼って大きな鶏小屋を空き地に建てていた、夫(お爺ちゃん)が居た頃に建てた物で食糧難だった戦後子育て時期にその鶏の卵で四人の子供の栄養を補ったと後年話してくれた。。。。子供が居た当時は、十数羽を飼って卵が余ると何某かの食料(米が殆ど、、)と交換をしていた(家庭の卵を買い取りに来る業者もいたので米と交換をしたようだ)。。。

 鶏を飼う、それはペットを飼うのと違う食料を得る手段である、、、卵を得るためだが卵を産まなくなると当然潰され食卓に上る訳でペットが居なくなる死んだと言う感傷は其処にはなかった、、、、来客があると鶏を絞めすき焼きにして食べさせた。

 我が家の主の老夫婦のお爺ちゃんが亡くなり、お婆ちゃんだけになるとお婆ちゃんは長男夫婦の家(天下茶屋)に移った、そして鶏が二羽庭に残った、、、

 母は律儀に鶏を世話し卵を産むと卵に日付を書き水屋の引き出しに籾殻を入れた引出に入れ家主と長男夫婦がそれらを回収するを待った、、、

 「あの卵は我が家のもんとちゃうから悪戯したらあかんで。」  と母は言う、お婆ちゃんと長男夫婦は時々やって来て卵を当然の権利の如く持って帰る。

 家で鶏を飼い卵を自給していると色々面白い逸話も溢れる、、?

 少四の遠足の時だったか、近所のA君がお弁当を広げゆで卵を割って叫び声を上げた、、ゆで卵ではなく、、孵化直前の雛がからから出てきたのだった。。。。。A君はその朝出来るだけ新鮮な卵と思い藁の中の鶏のお腹の下の卵を選び取った訳で、、、

 我が家の裏庭の鶏も居なくなり、お隣のお婆ちゃん宅の鶏も何時しか三羽が二羽になりとうとう一羽になって久しくなったある日、、珍しく鶏が卵を産み落としていた。。。。 「お婆ちゃん、鶏が卵産んでいるよ。」 私は嬉しくなってお婆ちゃんに教えた、近所では頑固なお婆ちゃんも同い年の孫が居たので私には優しくしてくれ時々家にも上がり込みその友達と遊んだので私もお婆ちゃんには話し掛けやすかった。。。

 「卵を産まななん様になったんで潰そうかと思ったけれど最近は残った一羽が妙に可愛く思えて飼っている、、」 昔遊んだ女の子の家族も、一時住んだ末息子夫婦も今は居ない、その婆さん独りで暮らしているので何時しか鶏がペットに成っていた、、、

 そのお婆さんも今はいないがお婆さんが行った言葉が今も耳に残る、、、

 「鶏の牛糞が利いて無花果の実が様なるわ。」

 私は心で言い返す、お婆ちゃんあれは牛糞ではなく鶏糞とちゃうん?

 

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昭和の時代87、消えた世界2、焚き火

 町内の一角に原っぱ(私有地)があったので所有者と暗黙の了解のもと町内の人は其処を生活の一部に使っていた、、その代償に空き地に蔓延る雑草の抜き取りや清掃もした、今の時代空き地(私有地)の管理も大変だ、フェンスを張り巡らした中は人の背丈のセイタカアワダチソウや鳥が運んだ種から芽生えた木々(ニセアカシアや??の木)が生えている、更に酷い場合其処はゴミの不法投棄の場所と化している。

 「焚き火をするから出ておいで。」 と近所の小母さんが誘いにやって来た。。。あの当時、焚き火は一種の娯楽でもあった、、、原っぱに行くと既に数人の大人に混ざり子供が五六人焚き火の周りに集まっている、、、「焚き火の後のお楽しみもあるよ。」 とその小母さんは言う。。。。お楽しみとは当然の行事、焼き芋の事である。

 焚き火が始まると自然と町内(長屋)の人が集まる、、、

 「○○の婆さんが見えんな。」 誰かの呟きに親は子供に言う、「○○の小母ちゃんに焚き火をしているから出で来いひんかと言っといで。」

 ちっちゃな火の集まりだったのが大きな火の集まりになる、、で、子供達は焚き火から離れ原っぱを走り回る、、、親や大人が何を話し合っていたのか知らない、私達子供は焚き火の火が消えるのを待っていた、此処で家に戻れば焼き芋は食べられないからだ。

 焚き火と言えば落ち葉焚きだが近所には落ち葉が出る様な大木がなかったので焚き火をする材料は可燃ゴミ、、、木片や茣蓙、紙の類を燃やしていた。。。。

 近所の遊びのお兄ちゃんは家から新聞紙の束を持ってくると焚き火に放り込んだが、、、遊びの輪に加わるとそっと教えてくれた、、「これで宿題をしなかった言い訳になる。」  どうやら宿題を間違って燃やしたと言う言い訳にする気だった、、、、

 

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2009年1月12日 (月)

昭和の時代86、消えた世界1、日章旗

今の時代、各家庭から消えた物が確実にある。

 昭和の三十年代或いは四十年代中頃まで祝祭日、特に正月三が日と神嘗祭、新嘗祭は各家庭の玄関口に日章旗(国旗)を掲げていた。。。

 朝、旗を玄関口に掲げ夕刻には旗を収めていた、、、旗を出すのを忘れているとご近所の顔役さんが、「旗を出すのを忘れているよ。」 と注意をしにやって来る。

 祝日だから特別何かをすると言う事はなかった、旗を掲げその日は静かに過ごしていた、、、実際、祝日でない節句日や夏祭り、地蔵盆等の色々な行事の日は忙しくまた愉しく過ごした記憶がある。

 旗を掲げ粛々と祭日の意味を噛み締める、母は農家の出だったので特に新嘗祭は思い出が深かったのだろう、村祭りの様子を話してくれた。 「男の人は上下を着て鎮守の森の社に参り来年の耕作( この辺りは記憶が定かでないが、、、)への祈願の挨拶をした。」

 「お爺は村祭りになると色々な細工の料理を持って寄り合いに出て行った。」 と母は話してくれた、飾り巻き寿司や寒天に色を付け松竹梅の飾りを造り村人を愉しませたとか。

 直接、農業に従事しない都会では収穫に対しての祝いの行事は無いが粛々と旗を掲げる事で感謝の気持ちを表すのだと親や周囲の大人から教えられた。

 しかし、町会、子供会の行事は残っても町内から顔役を買って出たお年寄りが居なくなると説明をする人が居なくなり祝日と言う名は残ったが祭日の意味が忘れられ祭日の意味が薄れてきた、、、そして何時しか各家庭から祭日に旗を掲げる習慣も消えて行った、、、

 母の実家に行く機会もないので知るよしもないが、今も変わらず半世紀前の祭日の行事は行われているのだろうか、それとも新時代風の祭日の様子なのであろうか、、、

 

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2009年1月11日 (日)

釣ったら食べる40、手乗り金魚

Photo_2 以前、金魚を飼っていた事がある、、

なかなか、可愛い物で

水槽の隅をこつこつ叩き餌をやると

 いつの間にか私が水槽の傍を通ると

 そわそわ小さな尻尾を揺すり餌の投入口に寄ってくる、、

 なかなかのハンサムボーイで、

 だから名前を、裕次郎にした、、、

 ほっぺがぷくと可愛いく膨らみ見ていると似ている!

 うん、うん、、いいよ!

 ある日、裕次郎を手乗り金魚に成らないかと思い付く、、

 餌粒を抓み水槽の中に手を差し込み裕次郎が来るのを期待する、、

 金魚の裕次郎は私の手の平ほどの大きさなので、、

 ちょっとした事には動じない、、

 大胆にも水面に上がってきて私の指先を吸い付く、、

 ああ、、エクスタシー、、、、、?

***********************

金魚の裕次郎が死んだのは

本物の裕次郎が死んだ年だった、、、

以降、金魚は飼っていない、、

裕次郎の写真を見ながら裕次郎を時々思い出す、、

 

 

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釣ったら食べる39、心理ゲーム?

Photo  海面下に垂れる釣り糸に三十センチ位の魚が戯れている、、

 見える魚は釣れないとはよく言った物で、

 この日も坊主の予感?

  波もなく穏やかな海は、、 透明度も高い、、

 この日は釣りを止め、、、

 釣り糸に集まる魚と遊ぶ事にする、、

 しかしだ、、、

 魚に弄ばれている感がする、、

 本日は魚さんによる人間釣り日?

 

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2009年1月 3日 (土)

釣ったら食べる38、数の子と離乳食

Photo 無事、正月の行事を終え今は残りの休日を愉しんでいる訳で、、

 去年の正月は三人目の孫が参加し、今年は四人目の孫が参加した、この分では五人目の孫が来年参加しているかも知れない、、、

 食べ物を出すと皆、好き勝手にわあわあきゃあきゃあやっている、、、

ふと、姉に抱かれる四人目の孫を見ると、大きな数の子を一本鷲掴みにしてかぶりついている、、、「、、そんなん、食べさせて大丈夫なん?」 と聞くと

 「飲み込めないから大丈夫。」 と姉は平然と言う、、

 四人目となるとそんなんかいなと私は思う、、

 チーズ(白カビタイプ)の皿が奥から回されて来た、、すると、、

 またしても姉はその孫(年は十一ヶ月)に食べさせる、、、

 「そんな白カビのチーズを食べさせてお腹壊さへんの?」

 私の心配をよそに姉はねっとり柔らかいチーズを口に押し込む、、

 確かに、さっき食べていた数の子は吐き出したが、、

 端で見ていて私は心配になってきた、、

 「蒸しケーキを○○と☆☆に作ってやるからそれを食べさたらええわ。」 私は蒸しケーキを作りながら卵アレルギーやったらこれも駄目かなと心配になってきた、、、

 一年三百六十四日、身近に乳幼児がいないと接し方が解らない、、

 新年早々、はらはらどきどきさせられた数時間だった、、

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